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実朝の次の鎌倉殿は誰?三寅が2歳で4代目将軍は史実通り?【鎌倉殿の13人】

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「鎌倉殿の13人」の大河ドラマで第46回(12月4日)が放送されます。

暗殺された実朝が次の鎌倉殿を今日から迎えると言ってました。

ですが実朝が亡くなったしまったことで、実朝の次の鎌倉殿は誰になるのでしょう?

ドラマで描かれる実朝の次の将軍は史実通りでしょうか?

それではどうぞ。

 

 

実朝の次の鎌倉殿は誰?三寅(藤原頼経)の史実について

「鎌倉殿の13人」46話で描かれる、三寅は史実ではどうなるのでしょうか?

三寅は、のちの4代目鎌倉殿となる摂関家出身の藤原頼経(ふじわらのよりつね)です。

子供がいない源実朝は鎌倉殿を辞し大御所となり、4代目鎌倉殿を朝廷から迎え入れる計画を立てます。

大御所とは隠居した将軍のことで、裏で大きな権力を持っている人です。

実朝は後鳥羽上皇の子供である頼仁親王(よりひとしんのう)を鎌倉に迎え、後継者にする予定でした。

ところが、建保7年(1219年)1月27日、源実朝は頼家の子供・公暁により暗殺。

突然の暗殺事件により、頼仁親王を鎌倉殿にむかえる計画がとん挫します。

これは後鳥羽上皇が頼仁親王を鎌倉に下向させるのを断ったためです。

北条氏は代替案として摂関家から迎えたいと上皇に伝えます。

摂関家と言えば、藤原氏の中でも天皇を補佐する摂政・関白を輩出した格式の高い家柄。

次に朝廷と交渉した結果、摂関家の幼児・三寅が選ばれます。

後鳥羽上皇もさすがにこの代替案を断れば、全面戦争になりかねないことから了承します。

これが後の4代目鎌倉殿となる「藤原頼経(ふじはわらのよりつね)」です。

藤原頼経は、摂政関白を歴任した九条一門である九条道家の三男で、源頼朝の妹のひ孫にあたります。

なので頼朝とは遠縁とはいえ、血のつながりがあります。

とはいえ、鎌倉に来た時は物心もついていない2歳の赤子!

そこで、成長するまで北条政子が政治を行い、執権の義時が政子を支えることになります。

三寅が4代目将軍に就任した時は、1225年(嘉禄元年)。

1225年と言えば、小栗旬さん演じる義時が実際に亡くなった1224年の翌年です。

1225年には義時に仕えていた大江広元殿も死去。

大江広元の死去の翌月には、北条政子も亡くなっています。

そこで、北条泰時は三寅の元服に合わせて藤原頼経と改名させ、4代将軍に付けました

とは言えこの時三寅はわずか9歳!

9歳の将軍ですから、飾り物であることに変わりはありません。

ここから北条泰時は幕府の政治機構の改革に本格的に着手していきます。

泰時は有力御家人の三浦義村ら11名による「評定衆」(ひょうじょうしゅう)を設置。

今でいうところの「内閣」の設置です。

ここでの合議によって政策を決定することに。

他にも1232年(貞永元年)、北条泰時は51条に及ぶ「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)を作成。

これは朝廷の「律令」に代わり武士が武士のためにつくった初の憲法です。

御成敗式目は室町幕府や江戸幕府まで受け継がれる基礎というべきものとなりました。

確かにいくら何でもこの内容を4代目将軍を交えて行うのは、あまりにも無理があります。

でもこうやって史実を見ていくと、北条泰時はかなりの優秀な人物だったんですね。

そして三寅こと4代目将軍、1256年(康元元年)に39歳で亡くなっています。

 

 

「実朝の次の鎌倉殿は誰?」まとめ

今回は「実朝の次の鎌倉殿は誰?三寅が2歳で4代目将軍は史実通り?」と題してお伝えしました。

2歳の子供、子供というよりまだまだ赤ちゃんなのに既に次の将軍として担ぎ上げる、という当時の権力闘争の凄まじさが伺える46話だと思いました。

45話までの流れだと義時がこのまま更なる実権を握りそうだと思いましたが、政子が「尼将軍」として自ら声を上げたのはドラマとはいえ、少しホッとしました。

個人的には、鎌倉幕府が9代目まで続くと知って「え、そんなに続いたの?」と思いました。

 

 

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