この記事は2025年に放送予定の大河ドラマ「べらぼう」で描かれる、主人公・蔦屋重三郎がどんな人物なのか?
蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)を演じるのは、横浜流星さんです。
生い立ちや晩年を調査して分かったことをまとめています。
又、実際のドラマではどう描かれるのか?予想をもとにお伝えします。
それでは、どうぞ。
【べらぼう】大河ドラマ2025・蔦屋重三郎(つたやじゅうさぶろう)はどんな人?波乱万丈の生い立ち
蔦屋重三郎は、江戸時代中期に令和の現在でいうところの出版界で活躍した人物として知られています。
版元として、斬新な商売を手掛けたことで、いわゆる「メディア王」として、一世を風靡した蔦屋重三郎。
歴史的に蔦屋重三郎はどんな人物で、生い立ちや晩年はどうだったのでしょう?
吉原で生まれた
蔦屋重三郎は、寛延3年1月7日(1750年2月13日)に、遊郭のあった吉原(現在の台東区千束)で生まれました。
父親は遊郭の勤め人の丸山重助という人物。
蔦屋重三郎の母は廣瀬津与という名前の、決して裕福とは言えない、庶民の家庭に生まれた子でした。
その後幼くして両親と生き別れとなってしまい、蔦屋重三郎が7歳の時に吉原で遊客を遊女屋へ案内する引手茶屋「蔦屋」を営む喜多川家の養子になりました。
そのため本名は「喜多川珂理」(きたがわからまる)と言います。
その後、成人してから吉原の引手茶屋を間借りして貸本屋を開きます。
そして「蔦唐丸」というペンネームで狂歌や戯作を執筆した活動をしていました。
通称「蔦重」とも呼ばれ、親しまれていたそうです。
独立後の蔦屋重三郎
安永6年(1777年)・27歳の時に、蔦屋重三郎は独立します。
これ以降、朋誠堂喜三二・山東京伝らと親交を深め、数多くの戯作や狂歌本を次々に刊行していきます。
天明3年(1783年)には丸屋小兵衛の株を買取り、当時としては一流版元の並ぶ日本橋通油町に進出。
洒落本、黄表紙、狂歌本、絵本、錦絵を手がけ、江戸屈指の地本問屋にとして、経営者としての実力を発揮します。
蔦屋重三郎の晩年は?史実をチェック
この頃になると、浮世絵では喜多川歌麿の名作を世に送ったほか、栄松斎長喜、東洲斎写楽などを育てるなど、次々と才能を発揮。
経営者として、プロデューサーとしての才能を遺憾なく発揮していました。
ところが、田沼意次に代わり老中となった松平定信による寛政の改革が始まったことで、蔦屋重三郎の経営状況が悪化していきます。
娯楽を含む風紀取締りが厳しくなり、寛政3年(1791年)山東京伝の洒落本・黄表紙が摘発され、蔦屋重三郎は処分を受けることに。
このことで、商売は大幅な縮小を余儀なくされます。
その後も、寛政6年(1794年)には写楽の役者絵を出版するなどしていた、蔦屋重三郎。
寛政9年(1797年)に48歳で亡くなりました。
蔦屋重三郎の死因は脚気であったとされてます。
大河ドラマ「べらぼう」の結末はどうなる?蔦屋重三郎の史実から予想してみた
出版業が成功したことで、蔦屋重三郎は、一般的な庶民よりは稼いでいたはず。
それなのに、なぜ?48歳で脚気で亡くなったのでしょう?
当時の江戸時代の平均寿命は45歳、歴代の徳川将軍も平均51歳で亡くなっています。
なのでその頃の平均寿命に照らし合わせると、極端に若くして亡くなったというわけではありません。
『脚気』という病気は、ビタミン不足が原因として起こる疾患で、末梢神経障害や心不全が起こる病気です。
白米中心の栄養が偏った食生活が続いたり、アルコール依存があるとアルコール分解に体内のビタミン使用され、ビタミンが不足して発症することがある病気です。
「べらぼう」大河ドラマでは、蔦屋重三郎が史実通りに脚気の病気で亡くなる、という結末を描くのか?
それとも、また違った解釈で蔦屋重三郎の晩年が描かれるのかもしれません。
まとめ
今回は、2025年に放送予定の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」の主人公・蔦屋重三郎について、
どんな人物なのか?
生い立ちや、これまでの功績・晩年について、又、大河ドラマでは晩年をどう描くのか?予想を基にお伝えしました。
大河ドラマ「べらぼう」で、横浜流星さん演じる蔦屋重三郎が、どこまえ史実通りに描かれるのか、興味深いです。