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ブギウギ朝ドラ茨田りつ子(菊地凛子)のモデルは淡谷のり子!史実はどうなった?

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朝ドラ「ブギウギ」で、ヒロイン・スズ子が出会うことになる、歌手の茨田りつ子(菊地凛子さん)。

茨田りつ子は「ブルースの女王」として知られています。

そんな茨田りつ子に実在のモデルはいるのでしょうか。

今回は茨田りつ子のモデルとされる淡谷のり子さんについて、史実を元に調査しました。

それではどうぞ。

 

 

ブギウギ茨田りつ子(菊地凛子)の実在モデルは淡谷のり子さん

まずは朝ドラ・ブギウギに登場する、菊地凛子さん演じる茨田りつ子について見ていきます。

  1. 茨田りつ子は朝ドラブギウギ・第1話冒頭と第7週から登場。
  2. 茨田りつ子は青森県出身の人気歌手
  3. 茨田りつ子は「別れのブルース」を歌い、福来スズ子と生涯の良きライバルとなる

 

ちなみに茨田りつ子を演じる菊地凛子さん、朝ドラ出演は2001年「ちゅらさん」村山麻衣子役以来なのだそうです。

 

ブギウギ茨田りつ子のモデルはどんな人?

茨田りつ子の実在モデルは、淡谷のり子(あわや のりこ)さんです。

淡谷 のり子(あわや のりこ)

  • 1907年(明治40年)8月12日生まれ、享年92歳
  • 青森の呉服店に生まれるも実家が破産。
  • 上京後、声楽を学び歌手となる。
  • 淡谷 のり子(あわや のりこ)さんはブルースの女王として活躍

淡谷のり子さんの実家は、老舗の呉服店・豪商「大五阿波屋(だいごあわや)」を営んでいましたが、青森大火により家は全焼してしまいます。

青森大火は、1910年5月3日、青森市で起きた火事で工場から出火し5,200戸以上に燃え広がる被害だったそうです。

淡谷のり子さんの父親が再建を目指すも放蕩癖があったため、実家は破産します。

淡谷のり子さんの両親は離婚、淡谷のり子さんは高等女学校を中退して、母と妹の三人で上京することになります。

歌うことが好きで、三浦環さんのファンだった淡谷さんは「音楽教師になって、余暇で三浦のようなクラシック音楽を楽しむ女性になりたい」と希望していました。

声楽家になろうとした淡谷のり子さんは、東洋音楽学校(現:東京音楽大学)へ進学します。

ところが音楽学校の校長に「声楽は難しいから君には無理だ」と言われピアノ科へ入ります。

ピアノ科で淡谷のり子さんは教則本を歌うのですが、歌声を聞いたピアノ科の先生に勧められ声楽科の編入試験を受けて声楽家へ再編入します。

晴れて声楽科に編入できた淡谷のり子さん、オペラ歌手を目指してクラシック音楽の基本を徹底的に勉強します。

ですが、徐々に家が貧しくなり休学することになります。

  • 1924年3月~1926年まで休学
  • その間は絵のモデルをして生活費を稼ぐ

復学後は久保田稲子さんの指導で高音域(ファルセット)が出せるようになり、声楽科をトップで卒業しました。

新人演奏会で歌を披露した淡谷のり子さんは当時、「10年に1人の逸材」と、ソプラノ歌手として絶賛されていました。

卒業後は家計を支えるために流行歌を歌うなどして活躍していた淡谷のり子さん。

1930年に「久慈浜音頭」で歌手デビューし、1931年に「私此頃憂鬱よ」、1935年「ドンニャ・マリキータ」の曲をリリース。

1937年の「別れのブルース」が100万枚以上を売り上げる大ヒットを記録します。

この「別れのブルース」は、作曲家の服部良一さんが制作した曲です。

そして「私此頃憂鬱よ」で初ヒットした淡谷のり子さんは、「別れのブルース」の大ヒットにより、「ブルースの女王」と呼ばれるようになりました。

服部良一さんは、淡谷のり子さんの歌声を気に入って曲を作ったそうです。

ちなみに「別れのブルース」は、ブルース感を出すために、淡谷のり子さんはレコーディング時に、飲酒と喫煙で声を潰してレコーディングに挑んだ、との逸話があります。

 

 

淡谷のり子さん・結婚~戦争中の活動について

1931年にピアニストの和田肇さんと結婚しましたが、1935年には離婚しています。

実は淡谷のり子さん、離婚後は生涯独身でしたが、1938年に子供を出産(父親は非公表)しています。

この頃は、日中戦争や第二次世界大戦の頃です。

戦時中、メイクや衣装は贅沢だとされていましたが、淡谷のり子さんは「歌手の戦闘服」として軍の命令には従いませんでした。

また、慰問活動中は他の歌手が歌っていた軍歌を歌うこともありませんでした。

キレイな衣装、パーマをかけた「戦闘服姿」で兵士たちの前で「別れのブルース」などを披露していました。

淡谷のり子さんは自分の信念を貫きながら活動をおこなっていたのです。

このような逸話を元に、「ブギウギ」の福来スズ子と茨田りつ子の登場場面が作られるのかもしれません。

 

 

 

ブギウギ茨田りつ子の実在モデル・淡谷のり子さん!その後(晩年)は?

ブルースの女王と呼ばれ大人気だった、淡谷のり子さん。

戦後から以降はどうなったのでしょう?

戦後になると、淡谷のり子さんはレコード会社の移籍を繰り返しながら「ファルセット唱法」で唄うようになりました。

1953年「第4回紅白歌合戦」に初出場した淡谷のり子さんは、トリも務めています。

ちなみに初出場でトリを務めるのは、淡谷のり子さんだた一人です。

また、淡谷のり子さんといえば昭和世代の方にとっては「ものまね王座決定戦」での、独特の辛口コメントを覚えてる方もいるのではないでしょうか。

この時の辛口コメントが人気となり、名物審査員として注目を集めました

そんな淡谷のり子さんは、85歳まで歌を続けていました。

しかし、1993年、86歳の時に脳梗塞になり、軽度の後遺症が残ります。

この時自分の歌声を聞いて「人に聞かせられない」と引退を決意。

1996年になると、寝たきり状態に。

1998年には青森市の名誉市民に選出され、車いすで参加したのが公の場では最後となりました。

1999年(昭和12年)9月に老衰で亡くなっています。

享年92歳でした。

笠置シヅ子さんと共に昭和時代に活躍した淡谷のり子さんは、
ライバルであり友人でもあった関係です。

「ブギの女王」と称された笠置シヅ子さんを、時に淡谷のり子さんは厳しく批判することもあったそうですよ。

しかし、同じ時代に活躍した歌手同士で、お互いのことをわかり合っている関係でもありました。

淡谷が笠置の家に遊びにいったときには、「母親に感謝しなさい」と娘(亀井エイ子さん)に言っていたことも。

そして、晩年になるまで2人の交友は続き、良き友人関係だったと言われています。

 

 

茨田りつ子(菊地凛子)のモデルは淡谷のり子・まとめ

今回は「ブギウギ朝ドラ茨田りつ子(菊地凛子)のモデルは淡谷のり子!史実はどうなった?」と題してお届けしました。

  • 「ブギウギ」茨田りつ子の実在モデルは淡谷のり子さん
  • 茨田りつ子のモデル淡谷のり子さんは青森県出身で声楽家を目指す
  • 茨田りつ子のモデル淡谷のり子さんは音楽学校を卒業後、歌手に
  • 茨田りつ子のモデル淡谷のり子さんは「別れのブルース」が大ヒットし、人気歌手に
  • 茨田りつ子のモデル淡谷のり子さんは、モノマネ番組の辛口審査員としても人気者に
  • 茨田りつ子のモデル淡谷のり子さんは92歳・老衰で病死

こうやって見ていくと、この時代の女性たちは力強いものがありますね。

当時の日本は令和の現在と違い、「男社会」が強く幅を利かせています。

そんな中、モデルとなった淡谷のり子さんは意思を曲げずにやりぬくほど、信念の強い女性でしたが、一方では強情とも言われるほどの芯の強い女性でした。

青森の呉服店に生まれ裕福に暮らしていたのですが、不運が重なり上京し、クラシック歌手としてデビュー。

乏しい収入から洋楽に挑戦し、ヒット曲「別れのブルース」により「ブルースの女王」と称され、晩年も歌手として活動し、歌に捧げた人生を送りました。

菊地凛子さんがドラマの中で「別れのブルース」を歌うのでしょうか。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

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