朝ドラ「ブギウギ」で、ヒロイン福来スズ子には、血はつながらないけど仲の良い弟・花田六郎がいます。
ドラマに登場するスズ子の弟・花田六郎は、徴兵検査で甲種合格となり、召集令状が届くシーンが描かれます。
この場面にネット上では「戦死フラグでは?」との声が上がっていますが、本当に六郎は戦死するのでしょうか?
又実際の史実ではどうなったのか?も気になりました。
今回は、弟の六郎のモデルとなった八郎さんの晩年を調査し、ドラマとは少し違った史実など、分かったことをまとめました。
それでは、どうぞ。
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【ブギウギ】スズ子の弟・六郎について!甲種合格で喜ぶ姿も
六ちゃんの亀はスズちゃんの公演を全部見たかもしれないですね。
ツヤさんも「もう、ええわ」と持ち込み阻止をあきらめたのかも…😆水川あさみさん、黒崎煌代さん、そして亀さんのオフショットいただきました🐢🐢#ブギウギ pic.twitter.com/OkXJ04jIJP
— 朝ドラ「ブギウギ」公式 (@asadora_bk_nhk) November 4, 2023
趣里さん演じるヒロイン・福来スズ子の弟、花田六郎(はなだろくろう)。
六郎は、スズ子とは3歳違いの弟です。
スズ子のことを「ネーヤン」と呼んでいます。
六郎は、花田家が経営している銭湯「はな湯」の片隅で、亀のお世話をするのが日課です。
六郎の「亀愛」は、姉の舞台にも亀を連れてくるほどで、ゴンベエに作ってもらった「亀の帽子」も愛用しています。
小さな #六ちゃん(又野暁仁)
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大きな六ちゃん(黒崎煌代)にチェーンジ!😄亀も大きくなってます!#ブギウギ pic.twitter.com/7p2QDJPOzO
— 朝ドラ「ブギウギ」公式 (@asadora_bk_nhk) October 26, 2023
六郎のカメ好きはかなりのようで、食卓を囲む場面でも、「亀の箸置き」を愛おしそうに触っていたりもありました。
ゆっくりのんびりした亀と、六郎はどこか通じるところがあるのかもしれません。
そんな六郎は、とても素直で正直な一面があります。
子供のころは、仮病を演じるスズ子の嘘を同期の2人にバラすなどのシーンがありました。
そして六郎は、小学校くらいの頃から不登校という設定になっています。
過去には「学校好かんねん。みんな、わいを馬鹿にしよるし。風呂屋が楽しいねん。」
と学校に行きたくない理由を漏らしていました。
そんな六郎の気持ちを、ツヤ母・梅吉ら両親も受け入れ、無理には学校には行かせていません。
六郎は、ゴンベエと一緒に銭湯の手伝いをしています。
香川の秘密をスズ子と共に守った六郎
香川にある治郎丸家の法事に、姉のスズ子と一緒に行った時、出生の秘密を知り、スズ子がツヤ母と梅吉の子でないことを知った時、六郎は「ワイとネーヤンとの秘密や」と言って、知らないふりをしていました。
そして時は流れて、昭和14年。
六郎は徴兵検査で「甲種合格」となったことを、東京にいる姉のスズ子に手紙で知らせます。
「甲種合格」とは、戦地に迎える条件が六郎に揃っている、ということ。
六郎はまるで、何か勉強の試験にでも合格したかのような喜びようでした。
ふだんあまり褒められることが無かった六郎にとって、内容はともかく、まずは「合格」と認められたことが彼にとっては誇らしかったのでしょう。
とはいえ、ツヤ母や、父の梅吉にとっては複雑な心境です。
そして、「甲種合格」の場面が描かれた後の次週の予告動画を見ると、坊主頭になった六郎の姿。
はな湯の常連客たちや、父の梅吉が泣きながら「万歳!」の三唱をするシーンが。
どうみてもこれは実際に召集令状が届き、本当に入隊して出征(戦地に赴く)ということでしょう。
【ブギウギ】スズ子の弟・六郎のモデルは八郎!最期は戦死?
そんなスズ子の弟・六郎のモデルは実在しているか調査したところ、亀井八郎(かめいはちろう)さん、という実在の人物である可能性が高いことが分かりました。
モデルとなっている笠置シヅ子さんには、実際に弟がいました。
それが「亀井八郎」さんで、2歳違いの弟です。
「亀井」という名字だから、六郎は亀好きの設定が生まれたのかもしれませんね。
史実では、ドラマのように他に兄弟がいました。
ですが、みんな早くに亡くなってしまい、生きていたのは、笠置シヅ子さんと、弟の八郎だけだったとのことでした。
「ブギウギ」六郎のモデル・八郎の最期は戦死
笠置シヅ子さんの弟・八郎さんは1938年(昭和13年)1月8日に召集され、四国・丸亀の師団に入団しました。
笠置シヅ子さんの自伝によると、八郎さんは笠置シヅ子さんの手を握り、
「生きて帰れるかどうかわからん。姉ちゃんに押し付けるようで気の毒だが、僕にかわって家のことは、あんじょう頼みまっせ」
そう言って家を出て行かれたそうです。
そして3年後の1941年12月6日、八郎さんはベトナム海上で戦死されたとのこと。
笠置シヅ子さんの自伝によると、「仏印(フランス領インドシナ、現ベトナム付近)の空で散華してしまった。」と書かれています。
笠置さんの弟・八郎さんは最後の時を戦闘機の中で迎えられたことが分かりました。
「ブギウギ」亀井八郎は19歳で散髪屋を開業
笠置シヅ子さんの実家は、ドラマと同じように大阪で風呂屋(銭湯)を経営していました。
その後、弟の亀井八郎さんは19歳の時に「散髪屋」を開業しています。
これと同時に、実家は風呂屋を廃業し、八郎が家計を支えていたのでした。
19歳で自分で商売を行っているということは、ドラマの六郎のような「のんびり系」の性格ではなかったのかもしれません。
ところが散髪屋を開業してから数年後に、亀井八郎さんは兵隊に招集されることに。
その後、昭和16年12月6日、ベトナム沖で戦死された、とのことでした。
実は、その2年前に、母・亀井うめも病死しています。
笠置シヅ子さんにとっては、かけがえのない家族を立て続けに失うという辛い経験でした。
シヅ子は、大阪で1人になった父親・音吉を東京に呼び、一時期は一緒に暮らしていたそうです。
八郎さんの出征により、すっかり意気消沈したご両親は、営んでいた散髪屋さんを廃業されています。
笠置シヅ子上京
八郎さんの出征から3か月後の1938年(昭和13年)4月21日、笠置さんは「松竹楽劇団」の創設メンバーに選ばれたことで上京しました。
八郎さんが出征したことで、笠置さんは「家を空けるのは忍びない」と思われたそうですが、散髪屋を廃業したことでご自身が一家の大黒柱となり稼がなければならなかったこと、
また、東京に行くことで月給も挙がることから東京に行く決心をします。
ですが、これに母・ウメさんは最後まで反対されたそうです。
又笠置シヅ子さんが上京する頃には、ウメさんには胃癌の兆候が出ていたとのこと。
いよいよ上京するという前の晩に、その頃すでに胃癌の兆候があった母は歩行困難の身で私を道頓堀の「まむし屋」(鰻屋)へ連れて行き、珍しく丼ひとつ平らげて、
「いったん、あんたを手離す決心がついたからには、まむしのようにな、わてはぬらりくらりと生き永らへていつまでも気イ長うして、あんたの出世を待ってるよって、向こうへ行ったら、わてのことや家のことなど心配せんと、しっかり精出しなはれや。なんせ大阪とちがって、東京には仰山競争相手が控えているのやからなア」
と、いつになくシンミリと私の顔を見つめたのでした。
引用元:笠置シヅ子自伝 歌う自画像 私のブギウギ伝記
またウメさんは、胃癌に加え、心臓も弱っていたそうです。
母の死
笠置さんの上京の翌年の1939(昭和14)年9月11日、母・ウメさんはお亡くなりになりました。
母・ウメさんの危篤の知らせを聞いたことで、笠置さんはすぐにでも大阪に帰りたかったかと思われますが、どうしても舞台の代役が見つからなかったことで、大阪に帰ったのは千秋楽まで舞台を勤め上げてから。
ウメさんの四十九日の法要の時だったそうです。
八郎の死と「大空の歌」について
妻・ウメさんを亡くし、一人になった父・音吉さんを心配した笠置シヅ子さんは、東京に音吉さんを呼び寄せて一緒に暮らすようになりました。
そして1941(昭和16)年に、八郎さんの戦死の知らせが届くのです。
戦死広報によると、その日付は12月6日とのこと。
八郎さんの戦死の知らせを受け、服部良一さんは八郎さんと笠置さんをモデルとした軍歌「大空の弟」を笠置さんのために作りました。
この「大空の弟」は、戦時中に笠置さんが歌った数少ない軍歌のうちの一つとなったのです。
(画像内にある、「村雨まさを」の名前は、服部良一さんの作詞家としてのペンネームです。)
実際の笠置シヅ子さんは、日中戦争や太平洋戦争における日本軍の戦局が悪化するにつれ、明るい歌を心情とする立場は、だんだん苦しくなっていました。
国民の思想信条を取り締まろうとする当時の警察に嫌われていました。
笠置シヅ子さんは特に反戦思想などを鮮明にして表立って軍部や政府に反対する意思はありませんでした。
ですが歌手の特性として、軍歌をどうしても歌うことはできなかったとのこと。
結局、日中戦争と太平洋戦争の間を通じて、笠置シヅ子さんが歌った軍歌は「真珠湾攻撃」と「大空の弟」のたったの2曲しか歌わなかったそうです。
笠置シヅ子さんはその後も父・音吉さんと二人で東京で暮らしていましたが、1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲で自宅が焼失してしまったことをきっかけに、音吉さんは生まれ故郷の香川に帰ることを希望し、帰っていきます。
今回は「ブギウギ」に登場する弟・六郎のモデル・八郎さんや史実についてお伝えしました。
「ブギウギ」にて描かれる時系列と実際の出来事の時系列は若干異なる部分があるため、実際の出来事を時系列でご紹介させて頂きました。
- 銭湯を廃業し、散髪屋を開業
- 八郎さんの出征(1938年1月8日)
- 笠置シヅ子さんの上京(1938年4月21日)
- 母・ウメさんの死(1939年9月11日)
- 東京にて父・音吉さんと同居
- 弟・八郎さんの戦死(1941年12月6日)
- 父・音吉さん香川へ(1945年5月25日東京大空襲がきっかけ)
実際は、上記のような時系列だったようです。
一家の大黒柱となったことで両親を残しての上京、最愛の母・ウメさんの危篤の知らせを聞いても舞台に立ち続けなければならなかったこと、可愛い弟の戦死の知らせ、父との別れ・・・
どれも悲しいエピソードです。
時系列は異なるものの、散髪屋さん以外のエピソードは「ブギウギ」において描かれるでしょう。