2024年に放送予定の大河ドラマ「光る君へ」。
「源氏物語」の作者として知られる紫式部が主人公です。
紫式部を演じるのは、吉高由里子さん。
源氏物語を描いた紫式部ですが、どのような生い立ちだったのでしょう。
又、紫式部が生きていた頃の時代背景も気になるところです。
今回は「紫式部の生い立ちや死因・時代背景について」と題して、紫式部の人物像についてせまっていきます。
紫式部の生涯を年表形式にしてみた
まずは、大河ドラマ『光る君へ』で主人公として登場する、紫式部の生涯と時代背景を簡単に表にしてみました。
紫式部の生没年には諸説あります。
当ブログの記事においては、生まれ年は970年で統一しています。
ドラマでの設定が違いますが、実際のドラマがスタートすれば、ドラマの設定に合わせて更新していきます。
紫式部の年齢は平安時代の数え方に合わせて、数え年(生まれた時が1歳)で表記しています。
現代に直すには−1を引いてください。
年 | 紫式部 | 時代背景 |
970 | 誕生 | この時の天皇は円融天皇 |
973 | 母が死亡(4歳) | |
984 | 父が式部省の役人になる(15歳) | 円融天皇退位し、花山天皇即位へ |
986 | 父が職を失う(17歳) | 花山天皇退位し、一条天皇即位へ |
990 | 藤原定子が一条天皇に入内(結婚) 藤原兼家の後を継ぎ、息子の道隆が関白となる |
|
993 | 清少納言が定子に仕える | |
994 | 姉が死亡(25歳) | |
995 | 道隆が死亡、弟・藤原道長が右大臣となる | |
996 | 父が越前守に任命。越前(今の福井県)へ 紫式部も同行(27歳) |
藤原道長が左大臣となる |
998 | 越前から戻り、藤原宣孝と結婚(29歳) | |
999 | 娘が誕生(30歳) | 道長の娘・彰子が一条天皇に入内(結婚) 一条天皇と定子の間に、敦康親王誕生 |
1000 | 定子が皇后、彰子が中宮となる 年末に定子・死亡 |
|
1001 | 夫の宣孝が死亡。 秋ごろから『源氏物語』を書き始める(32歳) |
|
1005 | 中宮・彰子に仕え始める(36歳) | |
1008 | 『源氏物語』ほぼ完成(39歳) | 一条天皇と彰子の間に、敦成親王(後の後一条天皇)誕生 |
1009 | 一条天皇と彰子の間に、敦良親王誕生 | |
1011 | 弟が死亡(42歳) | 一条天皇が退位し、三条天皇が即位。一条天皇・死亡 |
1012 | 彰子が皇太后となる | |
1013 | 宮中を出る | |
1014 | 紫式部が死亡(45歳) |
ここからは、『光る君へ』の主人公・紫式部の生涯について、
- 生い立ち
- 結婚〜死別
- 宮中へ
- 死因、の4つに分け、それぞれ時代背景と共にお伝えします。
①紫式部の生い立ちについて
紫式部は下級貴族の家に誕生。
4歳の時に母・ちやは(国中涼子さん)が亡くなります。
ちやはは紫式部の弟・惟規(高杉真宙さん)を出産してすぐに亡くなったと言われています。
父・藤原為時(岸谷五朗さん)は漢文や漢詩を得意とする学者。
紫式部は父のそばで聞いているだけで覚えてしまったため、
「紫式部が男の子として産まれていたら良かったのに」
と考えていました。
逆に弟の惟規は勉強が苦手だったとのこと。
父・藤原為時は、紫式部が15歳の時に式部省に勤め、六位蔵人くろうどでした。
【式部省とは?】
人事や礼式、役人養成機関である大学寮を統括する省のこと。
現代で言うと、文部科学省のような仕事や、役人の人事に関する仕事をする省のこと。
【六位蔵人とは?】
天皇の膳の給仕や、秘書的な役割をする仕事のこと。
家来の中では6番目の地位(1番下)であったが、帝がいる殿上の間に入ることは許されていた。
17歳の時、父・藤原為時(岸谷五朗さん)が職を失います。
これは、花山天皇(坂東巳之助さん)が僧になるため出家して退位し、一条天皇が即位したため。
当時は、天皇が交代すると重要な役職の入れ替えがあったためです。
そんな10年間無職だった父・藤原為時でしたが、淡路(今の兵庫県淡路島)守(あわじのかみ)に任命されます。
【守とは?】
国司(地方の国を治める役人)の中で1番上の階級。
家来の中では5番目の地位(下から2番目)だったが、帝がいる殿上の間に入ることは許されていなかった。
995年に関白・藤原道隆(井浦新さん)が亡くなり、一条天皇は誰も関白には任命しませんでしたが、藤原道長(柄本佑さん)を「内覧」にし、右大臣に昇格させました。
【内覧とは?】
天皇が見たり許可を与えたりする必要がある文書を、天皇より先に見る役職のこと。
「政治を取り仕切る役目」。
【右大臣とは?】
司法・行政・立法を司る太政官(最高行政機関)の職の一つ。
家来の中で2番目に偉い地位。
前述の通りトップが代わると役職の入れ替えが起こるため、紫式部の父・為時にも仕事が回ってきたという訳です。
しかし淡路は「下国」だったため、藤原為時は一条天皇に申文を出したのでした。
【下国とは?】
地方は土地の広さや農産物の撮れ高により、
- 大国
- 上国
- 中国
- 下国と格付けされていた。
【申文とは?】
下位の者が朝廷に希望を書いて差し出す手紙のこと。
為時の申文の出来が良かったため、大国・越前(今の福井県北部)守に任命。
そしてこの頃、紫式部は藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)から求婚されています。
しかし、藤原宣孝は17歳も年上で、当時は一夫多妻制のため、正室も側室も愛人もいました。
他の女性との子どもが紫式部と同い年だったため、結婚をためらっていました。
紫式部は父親を1人で越前に行かせるのが心配になり、一緒に越前へ向かいます。
紫式部が越前に向かうまでの時代背景について
紫式部が誕生してから越前へ行くまでの時代背景についてみていきます。
世は藤原家全盛期時代であり、ほぼすべての天皇に摂政・関白が置かれていました!
【摂政とは?】
天皇が幼い時に代わりに最終判断を下す役割。
【関白とは?】
成人した天皇を補佐する役割。
天皇が物事を決める前に、内容を吟味する権利があった。
身内同士の戦いとなり、藤原家は
- 北家
- 南家
- 式家
- 京家
に分かれて勢力争いをしていましたが、道長の父・藤原兼家(段田安則さん)は、
娘・詮子(吉田羊さん)を円融天皇(坂東巳之助さん)に入内(結婚)させる
↓
詮子が男の子・懐仁(後の一条天皇)を産む
↓
円融天皇は兼家が嫌いだったため、皇子を産んでいない藤原頼忠(橋爪淳さん)の娘・遵子を中宮(正室みたいなもの)にした
↓
怒った兼家は出社拒否&詮子と懐仁を円融天皇に会わせなかった
↓
円融天皇は譲歩して退位
「懐仁を皇太子にしてあげる代わりに、甥の花山天皇(本郷奏多さん)を次の天皇に」
↓
花山天皇(本郷奏多さん)が即位
↓
懐仁は東宮(皇太子)となる
↓
兼家は自分の孫(懐仁)を即位させるべく、策略する
↓
花山天皇が僧になるため出家して退位(兼家の陰謀説も)
↓
一条天皇即位
↓
兼家は祖父として摂政となる(のちに関白)
という流れで、藤原北家が権力を手にします。
ということで、紫式部も北家の一族でした。
貴族社会では妻の実家の援助を受け、母方の祖父や伯父が子どもを養育したり後見したりする習慣があった。
そのため、娘を天皇に嫁がせることで天皇の外戚となり、皇子を産ませることで力を持つことができた。
兼家の長男・藤原道隆(井浦新さん)は、長女・定子さだこ(高畑充希さん)を一条天皇に入内(結婚)させます。
一条天皇の母・詮子あきこ(吉田羊さん)も兼家の娘のため、道隆(井浦新さん)にとって一条天皇は甥っ子。
一条天皇と定子はいとこ同士で結婚したのです。
兼家が倒れると、藤原道隆(井浦新さん)が父の後を継いで関白となります。
993年、清少納言(ファーストサマーウイカさん)は28歳頃から女房として定子に仕え始めます。
女房というのは、宮中や貴族に仕えた女性のことで、主人の身の回りのお世話や教育をします。
そして、995年に藤原道隆(井浦新さん)が倒れると、色々とゴタゴタが起きます。
道隆は息子・藤原伊周(三浦翔平さん)に内覧を任せようとプッシュ
↓
伊周「話が違う!俺は関白になれるって聞いたんだ!!もう一度一条天皇に確認しろ!」
↓
一条天皇「何だあいつ」
↓
道隆(井浦新さん)の死後、伊周ではなく、道隆の弟・道兼(玉置玲央さん)が関白に就任
↓
しかし道兼は関白に就任して数日で、疫病で急死
↓
一条天皇は次の関白を伊周(三浦翔平さん)or道長(柄本佑さん)で迷う
「伊周は妻・定子の兄だし、官職も上。でも、道長は年齢が上で人柄も良く、素質もある」
一条天皇の母・詮子(吉田羊さん)が自分の弟・道長をプッシュ!
↓
道長が内覧&右大臣になる
↑内覧は関白と同じ様な権限、右大臣は家来の中で2番目に偉い地位。
こうして、藤原道隆(井浦新さん)の死後は、藤原道長(柄本佑さん)が権力を得ます。
その翌年、道長は左大臣に任命されます。
左大臣というのは、司法・行政・立法を司る太政官(最高行政機関)の職の一つ。
家来の中で2番目に偉い地位だが、家来の中で1番偉い太政大臣は名誉職みたいなものであるため、左大臣が事実上の最高位。
左大臣は年配者、右大臣は若者が就任する。
大きく分けると右大臣と同じ地位だが、細かく分けると左大臣の方が上です。