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大江広元殿は無双!目の視力が無くなっても強い理由とは【鎌倉殿の13人】

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2022年よりNHK大河ドラマで放送中の「鎌倉殿の13人」。

初代将軍・源頼朝が創設した鎌倉幕府の物語ですが、

幕府の政治を序盤から支えてきた家臣の一人・大江広元殿が気になります。

今回は大江広元殿の無双ぶりについて深堀してみました。

 

 

【鎌倉殿の13人】大江広元殿の無双ぶりをチェック

それでは早速、常に冷静な目を持つ、大江広元殿の無双ぶりを見ていきます。

源頼朝の元で常に的確な判断を下す大江殿。

佐藤浩市さん演じる上総介(かずさのすけ)が御家人たちによる謀反のスケープゴートとされます。

源頼朝の命を受けた梶原景時(中村獅童さん)に命を奪われますが、

「上総広常を討つべきだと思います。」

「もっとも頼りになる者は最も恐ろしい。」

と真っ先に発言したのは、大江殿でした。

続いては蒲殿の振る舞いについて、頼朝に告げ口!

『範頼様はまるで鎌倉殿になったかのような振舞いでした』

怒った頼朝は善児に、謀反を起こす気など微塵もない蒲殿を下すことを命じます。

善児も無双ぶりが怖すぎる

「鎌倉殿」41話では、和田合戦の回でした。

和田義盛軍は御所にも攻め入るとの情報が入ったことから、実朝(柿澤勇人さん)らは鶴岡八幡宮に逃げます。

ところが実朝は「忘れ物をしました。」と、父の頼朝が大事にしていた鎌倉殿の証しのドクロを取りに戻ると言い出します。

もちろん政子、実衣らは猛反対です。

すると大江広元殿が「そのお役目、私が」と名乗りを上げます。

政子は「危険すぎます」と止めるも、大江殿は「御所の中は知り尽くしています!」とキッパリ。

「お任せを」と言った大江殿は御所に戻り、まさかの強さで和田軍の武士をなぎ倒し、どくろをしっかり回収~!

大江広元殿はこれまであまり動きのないイメージがあったので、驚きました^^

他にも44話から45話では公暁の暗殺が描かれました。

大江殿は「源仲章には死んでもらいましょう。」と義時に進言。

鶴岡八幡宮の儀式の最中、仲章が義時と間違われて公暁に殺害され、大江殿は義時から仲章の死を聞くのですが、「源仲章殿には災難でしたが、自業自得。お陰で手間が一つ省けました」と何食わぬ顔で話すシーンもありました。

ここまで見ていると、鎌倉で一番怖いのは最初から最後まで大江殿と言ってもいいのではないでしょうか?

 

 

【鎌倉殿の13人】大江広元は北条政子推しは本当?

ここからはあらためて大江広元について、経歴や北条政子への想いについて見ていきます。

大江広元殿は源頼朝に仕えています。

とはいっても坂東武者のように大江広元殿は生まれながらの武士ではありません。

元は朝廷に仕える下級貴族(官人)。

京下りの官人の一人であり、大江広元ら官人は、鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』では「文士」と称されています。

文士とは、文書行政で主君を支える文官を指す。

武士の政権である鎌倉幕府は、武士だけでは政権は維持できない。

行政や裁判など実務をこなすには、文筆に長けた文士が必要。

そのため頼朝は京都から多くの文士をスカウトして、大江広元は鎌倉に来ることになり、頼朝以降の歴代の鎌倉将軍や、北条義時・政子らにも使える重鎮としてその存在を知らしめることとなります。

ちょっと驚いたのが、大江広元殿の亡くなった時の年齢です。

残された史実の記録を見ると、77歳で亡くなっています↓

事実とすればこの時代としては、かなりの長寿の方であることが分かります。

・生誕 :久安4年(1148年)
・死没: 嘉禄元年6月10日(1225年7月16日

・享年:77歳

引用元:Wikipedia

大江広元殿が死去された1225年7月16日ですが、何と1か月後の8月16日には北条政子も亡くなっています。

北条政子の生まれ年は1157年。

1148年に産まれた大江広元殿とは9才違いです。

大江広元殿と北条政子と言えば、大河ドラマでは、広元殿の政子に対する想いが感じられるシーンが随所に見られます。

例えば「鎌倉殿」41話では大江広元が鎌倉殿の証であるドクロを回収。

北条政子から「このこと、生涯忘れません!」と手を握られ、まんざらでもない様子の場面がありました。

気のせいか嬉しそうな表情に見えた、大江広元殿ですが、これは実際に史実通りだったのでしょうか?

お2人がそのような関係であることを匂わせるような記載は、「吾妻鏡」など、鎌倉時代の実際の史実書物にはありません。

ただ、お2人の年齢が9才差であることや、共に動乱の世を生き長らえたことによる絆のようなものが芽生えてもおかしくはないでしょう。

最愛の推しである政子から「重いわよ」と言われても一途に想いを遂げようとする、大江広元殿。

12月4日放送・46話では目の視力を失った大江殿が推しの政子の姿をなんとか見ようとを開いている場面も。

12月10日・47話でも、政子に嬉しそうに進言するシーンがあり、もはや大江殿は尼将軍至上主義と言ってもいいのではないでしょうか?

承久の乱の場面でも、大江殿は自分が書いた台本を政子が止められても、推しの政子の一世一代の大演説を聞いて思わず開眼している場面も。

(見えない目で政子を見ようとする大江殿を演じる、栗原英雄さんの細やかな演技に思わず爆笑してしまいました。)

「鎌倉殿の13人」では、最終回まで大江広元と北条政子の関係についてもどのように描かれるのかも楽しみです。

 

 

大江広元と毛利元就の関係について!毛利氏の祖だったという史実は本当?

とにかく大河ドラマで見ていて、非常に優秀で何もかもお見通し。

鎌倉幕府の中で将軍に次ぐ最強の人物と言っても過言でない、大江広元殿。

そんな大江広元殿が実は、毛利元就(もうりもとなり)で有名な安芸毛利氏の祖でもあるんだとか!

はじめは朝廷に仕えていたが、鎌倉に下り源頼朝の側近に。

大蔵御所公文所(政所)と鎌倉幕府の初代別当を務め、鎌倉幕府創設に貢献。

大江広元殿はその功績から、肥後国山本荘(熊本県鹿本郡植木町)、伊勢国栗真荘(三重県鈴鹿市)、相模国毛利荘(神奈川県厚木市)、周防国島末荘(山口県大島郡東和町)などの領地をもらい受けたのち、それらを子供らに分け与えます。

このうち、四男の季光(すえみつ)が、相模国毛利荘(もりのしょう)に居住。

その地名を自身の名字・毛利としたのが毛利氏のはじまりとのことです。

歴史好きな方ならご存知かもしれませんが、この縁のつながりがあることは知らなかったかたもいるのではないでしょうか。

 

大江広元殿が指示した承久の乱

大江広元役を演じた、栗原英雄さんwiki

耳と鼻をそがれかけた実衣(みい)の末路

 

 

【鎌倉殿の13人】大江広元殿・まとめ

今回は「大江広元殿は無双!目の視力が無くなっても強い理由とは」と題してお届けしました。

歴史大好き・日本史大好きの方には、大江広元殿の逸話についてはご存知の事ばかりだったかと思います。

当ブログの管理人は学生時代日本史の授業を受けたのですが、残念ながら教えの教師がハズレだったため、鎌倉時代については「1192作ろう、鎌倉幕府」さえ覚えれば、テストも受験もバッチリ!

こんな授業だったために、鎌倉時代については何も知らずに育ってしまいました。

今回三谷幸喜さんが鎌倉時代を取り上げてくれたいお陰で、大江広元殿という、将軍に継ぐ存在と言ってもいい歴史上の人物を知ることが出来て「鎌倉殿」のドラマが面白くて仕方がありません。

もしまだ「鎌倉殿の13人」のドラマを見ていない方がいらっしゃれば是非、お時間取ってみていただきたいです。

鎌倉殿の13人・ドラマ最終回

ラスボス・三浦義村が次の執権?

最後までお読みいただきありがとうございました。

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