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三浦義村(鎌倉殿の13人)最期はどうなる?北条義時との関係からラスボスを考察

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2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人』」で山本耕史さんが演じる三浦義村(みうら よしむら)。

何ともいえない独特の存在感を放っています。

そんな三浦義村が、小栗旬さん演じる北条義時との関係が今後どうなるのか?、そしてどんな最期を迎えたのか気になります。

今回は、三浦義村の最後はどうなっていくのかお伝えします。

 

 

三浦義村の逸話とは?有能な人物像?

三浦義村と言えば、「北条義時の相棒」や「冷静沈着で時世を見る能力に長けた人物」といった印象があります。

その一方で『鎌倉殿の13人』で描かれているように度々理解不能な発言をする姿が話題です。

例えば、源頼朝の愛妾・亀(江口のりこさん)の後妻打ちの噂を聞き、亀を避難させるためにやってきた際の一幕。

三浦義村:「(亀を)連れて行く当てはあるのか?」
北条義時:「これから考える」
三浦義村:「いっそ、オレの女になるか?」
亀:「悪くない」
北条義時:「女なら誰でもいいのか」
三浦義村:「誰でもではない。頼朝の女だ」「その時、初めて俺は頼朝を超える

「その時、初めて俺は頼朝を超える」の発言が放送された直後では、SNSを中心に「何いっているのか分からない」「義村の発言が理解不能」「なぜそれで頼朝を超えるの?」などといった声があがっていました。

続いて10月23日放送の、第40話での三浦義村の行動です。

北条義時暗殺を計画した「泉親衡の乱」が勃発。

関わった者の中に、和田義盛の息子、四男・和田義直(内藤正記さん)と五男・和田義重 (林雄大さん)、甥・和田胤長(細川岳さん)がいました。

このことをキッカケに北条義時は和田滅亡を謀ります。

実朝と政子(小池栄子さん)が奔走・説得し、戦は回避されたはずでした。

ですがここでも三浦義村は暗躍。

巴御前(秋元才加さん)は夫の和田義盛を裏切らぬようにと、館に来ていた三浦義村(山本耕史さん)たちに起請文を要求します

このシーンでは起請文を焼き、その灰を神前に供えた水(神水、神酒)に入れて飲む儀式を行い「一味同心」を誓い合っています。

なぜここまで要求したかというと巴御前は、三浦義村(平六)が北条に寝返るつもりなのを見抜いていたからでしょう。

巴御前といえば、以前三浦義村に口説かれたこともありました。

その後、北条義時はトウ(山本千尋さん)に「和田の館にいる三浦義村に、引き上げるよう伝えよ」と命じたのですが、時既に遅しで、御所にいる父を救うべく、四男・義直が先発隊を率いて出陣していました。

三浦義村は「小四郎、すまん」と覚悟を決めていますが、結局は和田義盛を見事に裏切っていました。

和田義盛の悲壮な最期「42話」

ドラマでは「起請文をリバースすれば無効」となっていましたが(笑)

実際の三浦義村は理解不能な人物だったのでしょうか?

それとも三谷幸喜さんマジックによる、独自の解釈??

実は、鎌倉初期の歌人である藤原定家の日記『明月記』によると、「義村八難六奇之謀略、不可思議者歟」と記されています。

ということから実際に、三浦義村の行動は当時多くの人が理解不能であったことがわかっています。

引用元:wikipedia

冷静で緻密な計画性に富んだ人物でありながら、たまに理解不能な言動もする三浦義村という人間はとても興味をそそられます。

そして、三浦義村を演じる山本耕史さんは、映画『シン・ウルトラマン』で独特な言い回しをする外星人第0号メラフィス星人も演じています。

そのことから、”三浦メラフィス義村”などとSNS上で言われ、そのセリフには大変注目が集まっています。

なので、今後も三浦義村のセリフには、伏線を思わせることも鑑みて要注目といったところでしょうか。

 

 

三浦義村の最期や死因はどうなる?北条義時との関係から史実をもとに予想もしてみた

これまでの内容から、三浦義村の最期や死因はどうなるのでしょうか?

『鎌倉殿の13人』では多くの登場人物が非業の死を遂げています。

三浦義村もそのような最期を迎えるのではないか?と思っている方もいるのではないでしょうか!?

鎌倉時代の歴史を伝える『吾妻鏡』によると、三浦義村の死因は「頓死、大中風」と記されています。

頓死とは、急死のことを意味していて、大中風とは、脳卒中(脳梗塞・脳出血・くも膜下出血)のことを意味します。

史実通りだと、三浦義村の最期は戦死や仇討ちといったものではなく、脳卒中による病気が原因であったことがわかっています。

三浦義村が亡くなったのは1239年(延応元年)で、年齢にすると71歳。

当時としてかなり長生きしたことがわかります。

ちなみに、源頼朝は享年51歳、北条義時が亡くなったのは1224年・享年61歳でした。

そうなると「鎌倉殿」のドラマでは史実通りに描かれるとすれば、北条義時が亡くなる時は生きていることになります。

承久の乱はいつ放送?

 

 

三浦義村はラスボスとして登場?鎌倉殿の13人の最終回について

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、9月に入りいよいよ折り返しです。

三谷幸喜さんが、7月に行われた「鎌倉殿の13人」に関するインタビューで、ラスボスが三浦義村である事を示唆していました。

最後の最後に義村は暗躍します。

そしてせっかく山本さんに演じてもらうのだから、最後の最後に、義村の最大の見せ場を用意するつもりです。

まだ言えませんが、物語の終盤、ラスボス的な存在で主人公に立ちはだかるのはこの男かもしれません。

引用元:https://realsound.jp/movie/2022/07/post-1068172_2.html

 

三谷幸喜さんは「最後の最後」という言葉が2回も出して、やたらと”最後”を強調しています。

「最後の最後」とはどの事件を指すのでしょう?

三浦義村はどのような”暗躍”をするのでしょうか?

【鎌倉13人衆の名言】というのがあり、

「たくさんの虫を一つに瓶に入れても、最後には一匹しか残らない。御家人も同じ。(意訳)」という言葉が残っています。

13人の一人の言葉(意訳)ですが、これに近い状態になっていきます。

ここから、13人の合議制になって以降を時系列に見ていきます。

  1. 『梶原景時の変』
  2. 『比企能員の変』
  3. 頼家の追放・謀殺
  4. 『畠山重忠の乱』
  5. 『牧氏事件』
  6. 『和田合戦』
  7. 『実朝暗殺』実朝と共に散ったスパイ・源仲章
  8. 『承久の乱』
  9. 『伊賀氏の変』

主人公の北条義時は、⑧と⑨の間に亡くなります。

三谷幸喜さんはインタビューで、主人公の人生が終わる時が大河ドラマの最終回と語っています。

そうなると”最後の最後”なので『伊賀氏の変』が最有力です。

でも『伊賀氏の変』は、主人公の北条義時が亡くなった後の事件なんですよね。

最終回にすると、主人公が亡くなった後も、ある程度尺が必要になります。

ちなみに一つ前の『承久の乱』は三浦義村が暗躍したという説が残っていません。

「鎌倉殿の13人」は果たして『伊賀氏の変』まで進むのでしょうか?

三浦義村が暗躍した事件を見てみる

ここでは、”三浦義村が暗躍したという説が多い事件”を見てみます。

  • 『梶原景時の変』
  • 『畠山重忠の乱』
  • 『牧氏事件』
  • 『和田合戦』
  • 『実朝暗殺』
  • 『伊賀氏の変』

 

結構関わっていますね。

こう見ていくと、三浦義村に畠山重忠を討つ動機はあるのでしょうか?

「石橋山の戦い」の後、畠山重忠らに居城を責められて、祖父の三浦義明が討ち死にしています。

この戦い自体はドラマの設定上不可抗力的な扱いになっていたし、頼朝の命令で和解していたはずなのですが、やはり祖父の恨みを晴らしたということでしょうか?

そして「牧氏事件」です。

将軍実朝の暗殺を謀ったとして、北条時政、りく(宮沢りえさん)が追放されて、平賀朝雅が誅殺された事件。

北条家の内紛です。

『牧氏事件』での三浦義村の役割(『愚管抄』の記述より)は、実朝(柿澤勇人さん)を時政の館から、義時の館に遷し、時政を呼び出して伊豆に送り届ける、です。

将軍実朝の安全確保や北条時政の追放などの実行は三浦義村が担っています。

三浦義村には北条時政を追放したい動機が見当たらないように見えます。

ですが、『梶原景時の変』でりく(宮沢りえ)に一杯食わされたので、りくの事を危険視したのかもしれません。

そして、和田合戦です。

和田合戦の発端は、反北条を目的に頼家の遺児を擁立する謀反が計画される(泉親衡の乱)。

それに和田一族が関与しているとして、義盛の子の義直・義重、甥の胤長らが捕縛された事に端を発する北条と和田の合戦です。

『和田合戦』での三浦義村の役割ですが、

和田義盛とは同族(父親が兄弟)であり、味方すると起請文まで作成しながら、北条側に寝返っているのです。

あっさり寝返る、三浦義村。

『比企能員の変』の時ですが、三浦義村は反北条側に味方すると思わせて結局北条側につくというパターンが多いです。

そして実朝暗殺です。

昔の大河ドラマ「草燃える」では、三浦義村が黒幕でした。

永井路子が『炎環』で唱えた「三浦義村黒幕説」。

その後、歴史学者から賛同する声が出て、ある程度の支持を集める説です。

三谷幸喜さんは大河ドラマファンなので、この説はご存知でしょう。

ただ同じ展開にするのか、どうか??
風雅風雅
そこが難しい所ですね、しかもこの事件が「最後の最後」か、と言われるとちょっと早いかもしれません。

実朝の暗殺

3代目鎌倉殿・実朝が暗殺される時、計画を遂行させるため公暁側についていました

そして暗殺後に小四郎(義時)側にバレるのを予測して、見事に立ち回り自ら手を下して公暁を亡き者として事なきを得ています。

この立ち回りの素早さは、お見事としか言いようがありません。

伊賀氏の変

この時に、北条義時が急死となります。

正室の伊賀の方は、泰時を廃して、自分が産んだ政村を後継の執権に据えようと画策します。

政村の烏帽子親であった三浦義村がこれに加担。

しかし、北条政子の説得で三浦義村が方針転換して、伊賀の方は追放されます。

そう考えると、三浦義村が最後の最後に暗躍する事件は『伊賀氏の変』では?と予想します。

いずれにしても、三谷幸喜さんの脚本マジックで思いもよらない、斜め上の展開もあるかもしれません。

源実朝の泰時が好きだった和歌の理由

三浦義村とオンべレブンビンバの関係

鎌倉殿の13人・最終回の放送日について

 

 

三浦義村どんな人?【鎌倉殿の13人】

ここからはあらためて、三浦義村のプロフィールをご紹介。

【プロフィール】
名前:三浦義村(みうら よしむら)
通称:平六(へいろく)
生涯:1168年(仁安3年)〜1239年(延応元年)12月5日

【両親】
父:三浦義澄(みうら よしずみ)
母:伊東祐親の娘

三浦義村は、平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた相模国(現在の神奈川県)の武将で、鎌倉幕府の有力御家人の一人。

父親は『鎌倉殿の13人』であり、13人の合議制のメンバーの一人である三浦義澄で、母親は伊豆(現在の静岡県)の豪族である伊東祐親の娘です。

三浦義村が初めて登場したのは、鎌倉時代を記した史書『吾妻鏡』寿永元年(1182年)8月11日の条で、源頼朝室(のちの政子)の安産祈願の祈祷のため、伊豆・箱根の両権現と近国の寺社へ遣わされた使者として。

「三浦平六(義村の幼名)」という名で登場しました。

しかし、実際の三浦義村の生誕や幼少期に関する史料はほとんど残っておらず、歴史的観点から1168年生まれと推測されています。

三浦義村の妻は判明している範囲で2人いました。(土肥遠平の娘、一条忠頼の娘)

ただ子供は14人と非常に多いです。

その為、他にも妻がいたことが推測されます。(朝村、泰村、長村、光村、重村、家村、 資村、胤村、重時、良賢、 矢部禅尼、土岐光定室、毛利季光室、 千葉秀胤室)

三浦義村と北条義時との関係(家系図)

三浦義村と北条義時との関係を家系図で紹介します。

この家系図から見てわかるように、八重(新垣結衣さん)は伊東祐親の子供で、三浦義村と北条義時は伊東祐親の孫であることがわかります。

三浦義村の母親が八重と姉妹にあたるので、八重は義村にとって親戚(叔母さん)です。

ただ叔母さんと言えど、年齢は近いと言われています。(八重の生年月日は不詳)

対して三浦義村の母親と北条義時の母親が姉妹にあたることから、三浦義村と北条義時は実は、従兄弟(いとこ)になります。

 

 

まとめ

今回は「鎌倉殿の13人」で、山本耕史さん演じる三浦義村のプロフィールや、最期の予想をお伝えしました。

  • 三浦義村は最期は脳卒中による病死(享年71歳)
  • 藤原定家『明月記』によると理解不能な人物であったと記述がある。
  • 八重との関係は親戚(叔母さん)
  • 北条義時との関係は遠い親戚
  • 三浦義村は梶原景時の変、畠山重忠の乱、和田合戦で活躍

71歳まで長生きした三浦義村。

おそらく『鎌倉殿の13人』では最終話まで出演することは間違いなしでしょう。

なので、今後もどういった感じで描かれるのか?

また、最終回までどのように北条政権に関わってくるのか非常に楽しみです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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