NHK大河ドラマ「どうする家康」で松本潤さん演じる徳川家康。
戦の前に突然逃げてしまい、本田忠勝に引き戻されたりと、これまでにない気弱な姿で登場しています。
そんな徳川家康といえば、三方ヶ原の戦いはどう描かれるのか。
今回は「【どうする家康】三方ヶ原の戦いはどう描かれる?」と題して、
たてられてるフラグから考察予想してみました。
【どうする家康】三方ヶ原の戦いとは?
まずは「三方ヶ原の戦い」が日本の歴史上どういう戦だったのか見ていきましょう。
戦国最強と名高い武田信玄に手痛い敗北を喫した、この戦い。
「三方ヶ原の戦い」は、1573年1月25日、現在の静岡県にあたる遠江国敷知郡三方ヶ原で起こった、徳川家康・織田信長連合軍と武田信玄軍との戦いです。
「三方ヶ原の戦い」の死傷者数は、武田軍が約200だったのに対し、家康・信長連合軍は約2,000!
約10倍です。
鳥居忠広や成瀬正義、本多忠真といった、当時の家康を支えた有能な家臣たちが討ち死にする大損害を被むることに。
「三方ヶ原の戦い」が終わった後、武田軍は東三河に侵攻しました。
武田信玄は要所である野田城を攻略しようとするのですが、信玄の持病が悪化したために、
進言側は撤退を決断。
その道中に信玄が亡くなったことで、家康は窮地を脱することが出来ました。
その後家康は、「三方ヶ原の戦い」で敗れた原因を分析することで、戦における情報戦の重要さを痛感します。
その後は武田信玄や武田家の武将たちへ尊敬の念を抱くとともに、武田家が滅亡した際は、武田家の旧臣を積極的に召し抱え、情報網を構築します。
武田家の旧臣は家康の天下統一に大きな貢献を果たしたとのこと。
三方ヶ原の戦いとは徳川家康の人生において最大の危機だったといわれていましたが、
家康はこの時の戦を糧にされたということです。
ちなみに、三方ヶ原の戦いと言われた理由ですが、
三方ヶ原は東西に10km、南北に15kmの広さがある扇状地が隆起した洪積台地で、3つの村の入会地だったことに由来して、この地名がつけられています。
徳川家康の居城である浜松城は、三方ヶ原の東南端にありました。
【どうする家康】三方ヶ原の戦いで松潤家康はどう描かれる?
徳川家康は戦国最強と名高い「甲斐の虎」武田信玄を相手に野戦を挑み、多くの有能な家臣を失っています。
さらに、家康自身も討ち死に寸前に追い込まれるなど手痛い敗北を喫した戦いです。
そこで有名なエピソードが、敗走中の家康が恐怖のあまり馬上で脱糞し、それを家臣に指摘された際に「これは味噌だ」と言ったという逸話や、敗戦してしかめ面をしている己の姿を自戒を込めて描かせた「徳川家康三方ヶ原戦役画像」です。
これらのエピソードを今回の大河ドラマでは、かなりハッキリと描くのでは?と予想しています。
というのも松本潤さん演じる徳川家康、これまでテレビドラマで描かれた家康と違って、初回放送からいつも身震いしてるんですよね。
桶狭間の戦いの場面では、あまりのプレッシャーから鎧を脱いで逃げてしまう始末。
岡田准一さん演じる織田信長が「待ってろよ、俺の白うさぎ」と言いたくなる程の身もだえぶり。
4話で織田信長の元へ馳せ参じる前でも、お腹をおさえてるシーンがありました。
これは三方ヶ原の戦いで、家康がかなりのプレッシャーを感じる姿を晒してしまうことへの伏線ではないでしょうか。
徳川家康と織田信長は1562年に、織田信長と武田信玄は1565年に、徳川家康と武田信玄は1568年にそれぞれ同盟を結んでいました。
なので、当初から敵対関係にあったわけではありません。
しかし織田信長が勢力を増し、自らが擁立した室町幕府第15代将軍・足利義昭との対立を深めていくなかで、彼らの関係は悪化。
武田信玄にとって上洛はかねてからの悲願でした。
1572年10月3日、「信長包囲網」の構築を望む足利義昭の呼びかけに応じた信玄は、
遠江、三河、美濃への同時侵攻を開始します。
この時、徳川家康も足利義昭から「信長包囲網」に加わるよう誘われましたが、家康は断っています。
10月13日、徳川領の要所である二俣城が包囲され、敵方の偵察に出た家康軍が武田軍と遭遇。
「一言坂の戦い」となり、家康軍が負けました。
二俣城は約2ヶ月にわたる抵抗の末、12月19日に降伏。
この時点で、家康と織田信長からの援軍の指揮をとっていた佐久間信盛は、武田信玄の次の狙いが浜松城であると考え籠城の準備を始めます。
しかし12月22日に二俣城を出発した武田軍は、浜松城を素通りし、西に向かう進路をとります。
この時、家康には3つの選択肢がありました。
①つめは、今からでも足利義昭の誘いに乗じ、武田信玄に降伏するというもの。
②つめの選択肢が、このまま武田軍をやり過ごすというもの。
そして最後のひとつが、武田軍の後を追い、野戦を挑むというものです。
結果的に家康は、3つ目を選択しました。その理由については諸説ありますが、「武士としての面目」という考え方が有力だと言われています。
もともと今川家に従っていた徳川家康は、「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に敗れた後、独立して今川家に攻撃を仕掛けています。
これは「松平蔵人逆心」「三州錯乱」と呼ばれ、今川家の家臣団を激怒させていました。
その後家康は、武田信玄との間に今川領を分割するという条件の盟約を交わし、そのうえで遠江に侵攻。
今川義元の跡を継いだ今川氏真がいる掛川城を1569年に攻略しています。
「三方ヶ原の戦い」当時は、それからまだ4年しか経過していません。旧今川家の家臣団が多く残る遠江の支配は、盤石とはいえない状態。
すでに「一言坂の戦い」で敗れている以上、戦わずしてやり過ごすような弱腰な姿勢を見せれば、遠江の者たちに徳川家康は武田信玄に怖気づいたとみなされ、徳川家による支配が瓦解する恐れがあったのです。
戦いに参加した兵力は、諸説あるものの徳川家康軍が織田信長からの援軍を加えて、1万~2万8000。武田信玄軍が2万7000~4万3000ほどといわれています。
【どうする家康】三方ヶ原の戦いの放送日はいつ?
どうする家康のドラマで「三方ヶ原」の戦いは、いつ頃放送されるんでしょうか?
これまでのNHK大河ドラマですと、最初は主人公の幼少期から紹介されていくパターンが多かったです。
でも今回の「どうする家康」、初回放送から松本潤さんみずからが幼少期を演じていました。
自分で堀った木彫りのウサギと共に、瀬名を演じる有村架純さんと鬼ごっこを演じるシーンも登場するなど、かなり斬新です。
今のところ、史実通りに話が進んでいるので、このままでいくと、姉川の戦いが起きた後に三方ヶ原の戦いが行われるので、第17回あたりではないでしょうか?
17回目というと、4月の終わりごろなのでその頃に、あのエピソードが描かれるのでは?と予想しています。
【どうする家康】三方ヶ原の戦い・まとめ
今回は「どうする家康」で三方ヶ原の戦いがいつ描かれるのか?
三方ヶ原の戦いでの、松潤家康の描かれ方について予想してみました。
三方ヶ原の戦い、この時代の流れからある意味重要な戦いなのでどう描かれるのか
とにかく楽しみです。
最後までお読みいただきありがとうございました。