この記事は、NHK大河ドラマ「光る君へ」で渡辺大知さん演じる、藤原行成(ふじわらのゆきなり)について、どんな人なのか?まとめてます。
ドラマで藤原行成は、道長の同僚として描かれますが、史実では、清少納言との恋仲説がささやかれるなど、2人の仲が良かった関係性も分かりました。
【光る君へ】藤原行成とはどんな人?道長との関係性は?
「光る君へ」で描かれてる藤原行成は、道長よりも6歳下。
後の道長の政権下では、蔵人頭に抜擢(ばってき)されると、細やかな気遣いで実務に能力を発揮し、政に欠かせない存在として道長を支え続ける人物です。
又、藤原行成は文字の美しさでは右に出る者がおらず、もてはやされました。
藤原行成は、藤原氏の中で最も栄えた藤原北家の藤原義孝の長男として、972年に誕生。
生まれて間もなく、祖父であり第64代円融天皇の摂政だった藤原伊尹の養子となりました。
ですが、972年の末に祖父・伊尹が病死。
その2年後には父・義孝も急死となり、藤原行成の家は没落していきます。
変わって、道長の父・兼家が藤原北家の嫡子となり、力を増幅させていきます。
これに手を差し伸べたのは、行成の母方の祖父・源保光(みなもと の やすみつ)でした。
源保光(みなもと の やすみつ)は、漢学や中国史に造詣が深く、蔵人頭を務めるなど学問や知識を充分に兼ね備えた人物。
藤原行成は祖父・源保光より十分な教育(学問)を授けられて育ちます。
不遇の時代を経て蔵人頭になった行成
藤原行成は、982年に元服し、従五位下の官位を与えられました。
その後は、行成の家柄や資質、また外祖父・源保光の庇護も働いていたのかそれなりの官職を与えられていました。
ですが強い後ろ盾がないことで出世のスピードは遅く、不遇の時代を過ごします。
園後、995年に蔵人頭権左中弁・源俊賢が参議に昇進した際、66代一条天皇に対し、後任として行成を蔵人頭に推薦したことで、行成は蔵人頭に任ぜられ、大出世を果たします。
行成の抜擢については、源俊賢(本田大輔さん)により推挙されたことが大きいものの、これまでの行成の真面目な努力が一条天皇をはじめ人々に認められたことも背景にあったと思われます。
「光る君へ」では、このあたりの史実がどのように描かれるのか?楽しみです。
四納言の一人となった藤原行成
その後、行成は順調に出世を重ね、最高権力者となった藤原道長の時代には、大臣に次ぐ高官位である権大納言高官位を与えられます。
そして、源俊賢、藤原公任、藤原斉信と共に、一条天皇の治世を支えた「四納言」と呼ばれました。
三蹟のひとりでもある藤原行成
また、藤原行成は書の達人であり、能書家として、小野道風・藤原佐理(すけまさ)とともに三蹟の1人として数えられ、行成の書は後世「権蹟」(権大納言の筆跡)と称されました。
藤原行成は、和様書道・世尊寺流の祖です。
また、「権記」(ごんき)という20年続けた漢文の日記も残っています。
1027年、体調を崩した藤原行成は、藤原道長と同じ日に死去。
享年56歳でした。
【光る君へ】藤原行成と清少納言は恋人の関係性だった?
藤原行成と清少納言は、実は「恋仲だったのでは?」と言われるほど仲が良かったそうです。
実際は「恋仲」ではなく、姉と弟のような関係だったのでは?という説の方が有力のようですが、噂になる位、残っているエピソードを見ていきましょう。
①:仲良しのきっかけ
行成が最初に仕えたのは一条天皇です。
清少納言は、一条天皇に入内した藤原定子(道長の兄・道隆の娘)に仕えていました。
ドラマでは、定子は高畑充希さんが演じています。
行成は一条天皇の蔵人頭だったことから、度々定子の元を訪れるようになり、定子の女房をつとめていた清少納言とも顔を合わせるようになりました。
②:清少納言は行成を評価
行成が蔵人頭となった頃は、定子のサロンの女房たちの行成に対する評判はよくなかったとのこと。
「枕草子」には、行成について以下のように記されています。
若き人々は、ただ言ひに見苦しき事どもなど、つくろはず言ふに、「この君こそうたて見えにくけれ。
こと人のやうに歌うたひ興じなどもせず、けすさまじ」などそしる
引用元:「枕草子」(校注・訳:松尾聰・永井和子「新編日本古典文学全集」)
現代語だと、以下の内容です。
若い女房たちは、見苦しいところなど正直に言ってしまうものなので、「この人は、本当に付き合いにくい。他の人のように歌を歌って遊んだりなどもしないので、面白みがなくてしらける人だ」などと非難していた。
若い女房たちからは、「面白みがなくてつまらない人」という評価だった行成。
ですが、清少納言自身は行成のことをそのように思ってはいなかったようです。
いみじう見え聞えて、をかしき筋など立てたる事はなう、ただありなるやうなるを、皆人さのみ知りたるに、なほ奥深き心ざまを見知りたれば、「おしなべたらず」など、御前にも啓し、また、さ知ろしめしたるを、
引用元:「枕草子」(校注・訳:松尾聰・永井和子「新編日本古典文学全集」)
現代語だと、以下の内容です。
行成は格好をつけたり風流な人だという噂もないため、ただの平凡な人だとみんなは思っているのだろうけれど、私は(行成の)心の奥深さを見知っているので、「(行成は)凡庸な人物ではありません」と中宮(定子)さまにも申し上げていますし、中宮さまもそれを知っていらっしゃいます。
若い女房たちからは評判が良くなくても、清少納言は行成の才覚を見抜いていました。
③:清少納言を追いかけまわす
行成は、自身の才覚を見抜き評価してくれていた6歳年上の清少納言をとても頼りにしていたようで、定子に取次いでもらう際には他の女房には頼まず、必ず清少納言を通して取り次いでもらっていたとのこと。
清少納言が部屋にいなければ宮中を探し回り、また、長期休暇で実家に帰っていたなら実家まで押し掛けることも。
このことが原因で、行成と清少納言は一度絶交状態になるのですが、すぐに仲直りします。
仲直りのきっかけとなったのは、次のエピソードです。
④:清少納言の顔を見て会話する仲
当時、貴族の女性が男性と会う時には、御簾越しに顔を合わせるか、扇で顔を隠すのが一般的でした。
よほど仲のいい間柄の男性でないと顔を合わせて会話することはありません。
それゆえ、清少納言も藤原行成に素顔を見せることはなく、御簾越しに会話をしていたのですが、ある時、清少納言は行成に素顔を見られてしまいます。
清少納言は、偶然一条天皇と定子が仲良く庭を散歩している姿を見かけ、それを眺めていたところ、そばに誰か人の気配がしました。
御簾の隙間から清少納言のことを覗いていたのは、行成でした。
清少納言は顔を隠す間もなく、行成に素顔を見られてしまったのでした。
その時、行成はこのように言ったのだとか。
「『女は寝起き顔なむ、いとかたき』と言へば、ある人の局に行きて、かいば見して、またも見やするとて来たりつるなり。まだ上のおはしましつるをりからあるをば、知らざりける」
引用元:「枕草子」(校注・訳:松尾聰・永井和子「新編日本古典文学全集」)
現代語だと、以下の内容です。
「『女性の寝起きの顔を見るのはとても難しい』ということなので、ある人の局に行ってのぞき見をして、またもしかするとあなたのお顔も見れるかもしれないと思ってやってきたのです。
まだ帝がいらっしゃった時からいたのですが、あなたは気が付きませんでしたね。」
この行成の言葉を清少納言は面白がり、このことをきっかけに、清少納言と行成は仲直りするとともに、御簾越しではなく直接顔を合わせて話す仲になります。
「枕草子」によく登場することから、「恋仲では?」とも言われる清少納言と行成ですが、恋仲と言うよりは姉と弟のような冗談を言い合える気の合う関係だったではないでしょうか?
【光る君へ】藤原行成について・おわりに、、、
今回はドラマ「光る君へ」に登場する渡辺大知さん演じる藤原行成の人物像や、清少納言とのエピソードについてお伝えしました。
藤原行成は、藤原北家嫡流の家に生まれますが、祖父・伊尹と父・義孝を相次いでなくしてしまったため、家は没落。
外祖父である源保光の擁護を受け育ちますが、強い後ろ盾がなかったため、長い不遇の時代を過ごします。
源俊賢より蔵人頭の後任に推挙されたことで大出世を果たし、以後は順調に出世。
権力者となった道長からも信頼されたことで、大臣に次ぐ高官位である権大納言高官位を与えられました。
源俊賢、藤原公任、藤原斉信と共に、一条天皇の治世を支えた「四納言」と呼ばれるとともに、書の達人であり、能書家として、小野道風・藤原佐理(すけまさ)とともに三蹟の1人として数えられています。
「枕草子」にもよく登場しており、そのエピソードからは清少納言との仲の良さがうかがえます。
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