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【光る君へ】ききょう(清少納言)とまひろ(紫式部)がライバル関係は史実?

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この記事は、NHK大河ドラマ「光る君へ」に登場する、ききょう(清少納言)について、

まひろ(紫式部)とライバル関係なのは本当なのか?

史実も調査して、2人の関係について分かったことをお伝えします。

 

【光る君へ】ききょう(清少納言)とまひろ(紫式部)はライバル関係?漢詩の会について

「光る君へ」大河ドラマで、ききょう(清少納言)が登場するのは第6話(2月11日放送)から。

ききょう(清少納言)を演じるのは、ファーストサマーウイカさんです。

6話で、道長が長兄・道隆に四条宮の勉強会で聞いた話を報告。

道長とともに漢詩を学ぶ藤原行成によれば、花山天皇の叔父・藤原義懐が藤原公任と斉信を花山天皇の一派に組み込もうと、有力な家の子弟である2人を懐柔しようとしているとのこと。

長兄・道隆は未来ある若き子弟たちが花山天皇らに向かいすぎることを警戒し、そのための対策として、若者たちのために、漢詩の会を開くことにします。

この漢詩の会に、まひろの父・為時が招かれることに。

まひろは、道長がこの会に参加していないことを確認したうえで、父とともに向かいます。

会の当日、為時とともに講師を務める、清原元輔(きよはらのもとすけ)が、娘・ききょうを連れてやってきたのでした。

この会の中で、公任が見事な漢詩を披露。

まひろは意見を求められ、慌てて「唐の白楽天のような詠いぶりです。」と感想を述べます。

するとききょう(清少納言)は、すかさず、まひろの意見に反論。

「私はそうは思いません。むしろ、白楽天の無二の親友だった、元微之のような詠いぶりでした。」と述べるのです。

この場面を見ていると、ききょうは、まひろに対抗心があり、負けず嫌いな一面があるように思えます。

まひろは、以前から倫子(黒木華さん)が赤染衛門を招いて定期的に開いているサロンに出席し、文学の才能を遺憾なく披露。

清原元輔(きよはらのもとすけ)もおそらく、まひろの才女ぶりを耳にしていたのではないでしょうか。

そうなると、父から伝え聞いたまひろに対して、ききょうは並々ならぬ関心を持っていて、当日の漢詩の会の、まひろの意見に思わず反論してしまったのかもしれません。

 

清少納言と紫式部の関係を年代から史実で比較

ドラマで登場するお2人は、ほぼ同年代のようですが、史実でもそうだったのか、比較して表にまとめました。

紫式部と清少納言の生没年には諸説あります。)

紫式部 清少納言
生没年 970〜1014
(45歳で死去)
966〜1025ごろ
(59歳ごろ死去)
代表作 長編物語『源氏物語』 随筆『枕草子』
宮仕えを始めた年 1005年(36歳) 993年(28歳ごろ)
仕えた人物 彰子 定子
サロンの雰囲気 上品で消極的 明るく華やか
性格 陰キャ
(人付き合いが苦手でネガティブ)
陽キャ
(明るく積極的で勝ち気)
父親 藤原為時ためとき(岸谷五朗)
・下級貴族
・漢文や漢詩が得意な学者
・紫式部が優秀だったため、「お前が男だったら」と言う
清原元輔きよはらのもとすけ
・中流貴族
・有名な歌人
・清少納言を褒めて育てる
母親 ちやは(国中涼子)
・紫式部が4歳の時に亡くなる
不明
結婚歴 998年 藤原宣孝のぶたかと結婚(29歳)
1001年 死別(32歳)
981年 橘則光たちばなののりみつと結婚(16歳)
反りが合わず離婚
藤原棟世むねよと再婚
子供 999年 娘・賢子を出産(30歳)
・賢子は、後に大弐三位だいにのさんみという歌人になる
彰子の女房
982年 橘則光との息子・橘則長たちばなののりながを出産(17歳)

藤原棟世との娘・上東門院小馬命婦じょうとうもんいんこまのみょうぶを出産
・小馬命婦は歌人になる
彰子の女房

こうやって表で見ていくと、お2人には4つの共通点があります。

  1. 一条天皇の妃に女房として仕えた
  2. 中級~下級貴族の出身である
  3. 結婚歴がある
  4. 子供が彰子(紫式部が仕えた姫)に仕える

 

 

 

ききょう(清少納言)とまひろ(紫式部)は史実では会ったことが無かったのは本当?

ききょう(清少納言)とまひろ(紫式部)に共通点が多いのは分かりました。

ただ、史実を調査してみると、実際に2人が出会ってたことが無かったようです。

2人の接点といえば、同じ一条天皇の妃たちの女房として仕えています。(紫式部→彰子、清少納言→定子)

ですが、2人が同じ時期に宮中にいたことはありませんでした。

  • 清少納言が宮中にいた時期→993年〜1001年ごろ
  • 紫式部が宮中にいた時期→1005年〜1013年

清少納言が宮中を去り、紫式部が宮仕えを始めるまで、4年ほど空いてるんです。

  • 紫式部と清少納言の娘たち(大弐三位だいにのさんみ上東門院小馬命婦じょうとうもんいんこまのみょうぶ)は彰子(紫式部が仕えた姫)の女房になっている。
  • 清少納言の友人・和泉式部いずみしきぶ赤染衛門あかぞめえもんは、後に彰子に仕え、紫式部の同僚になっている。

ということから、史実では直接的な面識はありませんでした。

なので、バチバチのライバル(対立)関係だったわけではありません

とはいえ、紫式部が綴った、宮仕え中の日記『紫式部日記』により、紫式部が一方的に清少納言をライバル視していた可能性は考えられるようです。

というのも、紫式部が『紫式部日記』で名指しで清少納言の悪口を書いているのに対し、清少納言が『枕草子』で紫式部自身の悪口を書いている描写がないからです。

  • 「枕草子」が完成したのは1001年頃であり、紫式部が宮中に入った頃(1005年)には既に広まっていた。
  • 紫式部が『源氏物語』を書き始めたのは1001年頃、既に清少納言は「枕草子」を書き終えた&宮中から去った時期だった。

紫式部は清少納言を知っていたが、清少納言は『枕草子』執筆時、紫式部のことを良く知らず、意識もしていなかったのでした。

そもそも、「彰子に皇子を産ませたい!」と思った藤原道長が、一条天皇の気を引くために紫式部を彰子の女房にしています。

紫式部には「一条天皇の気を彰子に向けさせる」という使命があるにも関わらず、

  • 一条天皇は定子が大好きだったので、定子が亡くなっても、当初は彰子に見向きもしてくれなかった。
  • 一条天皇が来たくなるようなサロンにしなくてはいけないのに、彰子のサロンは上品でお堅いサロンだった
  • 定子が逝去して9年経っても、明るく華やかな定子サロンを懐かしむ声があった、という歯がゆい状況だった。

清少納言は定子サロンの謂わば「看板女房」でした。

そのため、『源氏物語』で有名だった紫式部は、何かと比べられることも多かったのかもしれません。

前述の通り、紫式部は陰キャであるのに対して、清少納言は陽キャ。

紫式部が仕えている彰子は大人しいタイプの女性なのに対して、清少納言が仕えていた定子は華やかなお姫さまタイプでした。

そうなると、同じようなサロンを作り上げるのは難しいです。

そのため紫式部は、

  • 「一条天皇の気を彰子に向けさせるために『源氏物語』を書いたり、彰子に漢詩を教えたり、いろいろ頑張ってる。
  • なのに、みんな清少納言がいた定子サロンのことばかり懐かしんでる様子。
  • 私だって清少納言に負けないくらい優秀なのに!

と感じていて、一方的にライバル視していたのかも。

当時定子は漢詩の知識が有ったことで、一条天皇とも話が弾んでいたことから、紫式部が彰子に漢詩を教えています。

 

 

 

【光る君へ】ききょう(清少納言)とまひろ(紫式部)の関係について・おわりに・・

今回は「【光る君へ】ききょう(清少納言)とまひろ(紫式部)がライバル関係は史実?」と題して、清少納言と紫式部、2人の関係性について、史実も調査してお伝えしました。

史実では、清少納言と紫式部は共通点が多いものの、実際に対面はしていませんでした。

ですが「光る君へ」では、ききょうとまひろの関係性が、どのように描かれるのか?興味深いものがあります。

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