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【ブギウギ】タナケン(生瀬勝久)のモデルはエノケン(榎本健一)!史実はどうなった?

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朝ドラ「ブギウギ」で、ヒロイン・スズ子が出会うことになる、喜劇王のタナケン(生瀬勝久さん)。

タナケンは「喜劇王」として知られています。

そんなタナケンに実在のモデルはいるのでしょうか。

今回はタナケンのモデルとされるエノケン(榎本健一さん)について、史実を元に調査しました。

それではどうぞ。

 

【ブギウギ】タナケンのモデルはエノケン(榎本健一さん)

朝ドラ・ブギウギの後半も、ヒロイン・スズ子の周りに様々な人物が登場することが発表されました。

そのうちの一人、喜劇役者「タナケン」こと棚橋健二とは、第二次世界大戦期前後の日本において、国民的喜劇俳優として活躍した、「エノケン」こと榎本健一さんをモデルにしていると考えられます。

NHK朝ドラ「ブギウギ」は、タナケンを演じるのは、生瀬勝久さんです。

実は、福来スズ子のモデルである、笠置シヅ子さんは「2人の名伯楽あり」と言われています。

1人は作曲家の服部良一さん。

(ブギウギでは、草彅剛さん演じる羽鳥善一)

もう1人が喜劇役者の榎本健一さんです。

 

 

「ブギウギ」タナケン(生瀬勝久)のモデルはエノケン(榎本健一)wiki経歴プロフィール

  • 名前:榎本健一(えのもと・けんいち)
  • 生年月日:1904年10月11日
  • 没年月日:1970年1月7日(65歳没)
  • 出身地:東京市赤坂区青山(現在の東京都港区青山)

 

エノケンさん・幼少期

榎本健一さんは幼少期に母を亡くし、母方の祖母に引き取られますが、祖母も死去したことで父親の元で育てられました。

やんちゃな性格で、親が学校に度々呼び出されることもあったそう。

小学校時代には、通信簿に「甲乙丙丁」のうちの落第点の「丁」をつけられたため、自ら鉛筆で「丁」に線を書き加えて「甲」に見せかけ、父親に見破られ、ひどく怒られたというエピソードがあったそうです。

俳優・役者時代

榎本健一さんは、浅草に頻繁に遊びに行っていたことがキッカケとなり役者を志します。

1919(大正8)年に浅草オペラの「根岸大歌劇団」の俳優・柳田貞一(やなぎだ・ていいち)に弟子入り。

浅草・金竜館にて初舞台デビューを果たします。

1923(大正12)年9月1日の関東大震災をきっかけに壊滅的な被害にあった浅草を離れ、映画の撮影所がある京都嵐山で喜劇的な寸劇を演じるようになりました。

その舞台で猿蟹合戦の猿役を演じた際、ハプニングでお櫃からこぼれた米粒を咄嗟に猿の動きを真似て拾いながら食べるというアドリブをしたところ、それが観客にウケたことから喜劇役者を志すようになります。

喜劇王になる

榎本健一さんはその後「エノケン一座」を立ち上げます。

素早い動きで笑いを取り人気となっていったことで、その人気に目をつけた松竹から破格の契約金で専属に迎えられます。

同時に浅草の松竹座でも喜劇を公演し、下町での地盤を確固たるものにします。

一方、有楽座において、主に学生などをターゲットとしたモダンな喜劇の公演を旗揚げしたコメディアン・古川ロッパも人気があり、

「下町のエノケン、丸の内のロッパ」と言われ、人気を二分していました。

戦前のコメディー映画でもスターでしたが、戦後においても笠置シヅ子さんを相手役にした舞台や、映画「歌うエノケン捕物帖」などがヒット!

テレビのコメディ番組や歌番組にも出演されるなど活躍されました。

「日本の喜劇王」と称され絶大な人気を誇ったのですが、実は私生活では悲劇が続きました。

舞台で孫悟空を演じた際、如意棒を左足に落としたことが原因で壊死し、足の指を切断することに。

また、1957(昭和32)年には、長男・鍈一さんを26歳の若さで失い、その後、今度は右足を大腿部から切断。

失意から自殺未遂を繰り返すなど、私生活では次々と不幸に見舞われるとともに、1,000万円近い借金を背負い込むなど、悲劇が続きました。

生きる気力を失いかけていたエノケンさんでしたが、周囲の励ましにより、義足をを付けて舞台や映画に復帰。

1966(昭和41)には芸術祭奨励賞を受賞。

ですが、1969(昭和44)年11月、中華民国巡業において、エージェントに出演料を騙し取られたことによる精神的ダメージにより、長年の飲酒で弱っていた肝臓がさらに悪化。

車いすで舞台の演出をするなど活動していましたが、年が明けた1970(昭和44)年1月、肝硬変により亡くなります。

 

 

「ブギウギ」タナケンのモデル・エノケンと笠置シヅ子との関係について

笠置シヅ子さんと榎本健一さんの出会いは、1946(昭和21)年、日比谷・有楽座の稽古場です。

この時エノケンさんは、笠置シヅ子さんの演技を見て、芝居のツボが外れていると指摘したそうです(「ブギの女王・笠置シヅ子 心ズキズキワクワクああしんど Kindle版(新しいタブで開きます)」より)。

それでもその外し方が面白い効果を出していると感じたエノケンは、笠置シヅ子さんに「どんなにツボを外しても、自分が受け止めてやるからそのまま突っ込んでこい」と伝えたと言われています。

まさに「演技の師匠」からの温かい励ましでした。

福来スズ子のモデルとなっている、笠置シヅ子さんは、服部良一さんだけでなく、昭和の戦前・戦後において「喜劇王」と言われた、榎本健一さんとの出会いが、その後の「ブギの女王」だけではない活躍につながったのでしょう。

服部良一さんが笠置シヅ子さんの「歌の師匠」であるならば、エノケンさんは笠置さんの「演技の師匠」ともいえる人物。

笠置シヅ子さんを「お芝居の世界での才能」を見抜いたのはエノケンさんだと言われています。

上海で終戦を迎えた服部良一さんは、1945(昭和20)年12月に帰国。

戦後、笠置シヅ子さんと服部良一さんとの音楽活動が再開したのは、1946(昭和21)年3月開演のエノケンさんとの舞台「舞台は回る」であり、

この舞台でエノケンさんと笠置さんは初めて顔を合わされたそうです。

それからお2人のコンビは連日有楽座の舞台を満席にします。

又、映画においても「エノケンのびっくりしゃっくり時代」「歌うエノケン捕物帖」「エノケン・笠置のお染久松」など多くのヒット作を世に送り出しました。

 

 

笠置シヅ子さんとエノケンの関係性について

エノケンは笠置シヅ子さんの自叙伝に寄稿文を寄せています。

その中で笠置シヅ子さんのことを「裏表のない生一本の性格」として評価しています。

笠置シヅ子さんがエノケンさんのことを「先生、先生」と言いながら、お歳暮にミカンを配って回る姿をエピソードとして書き残しています。

笠置シヅ子さんのことをずいぶん真面目な性格の持ち主であると見ていたのでしょう。

このエピソードはブギウギでも、梅丸少女歌劇団に入団した鈴子が、「ワテは、一日試験日を間違えても入団を認めてくれた、梅丸に恩義があるねん。義理と人情や」と描かれていました。

当時の世間では「女喜劇役者」や「女エノケン」とまで、評されていた笠置シヅ子さんからは考えられない真面目な性格が、エノケンが笠置シヅ子さんの演技に目をかけるきっかけになっのではないでしょうか。

笠置シヅ子さんは舞台に立てないエノケンの代役へ

笠置シヅ子さんは、後にエノケンさんの舞台の代役をつとめたことがありました。

当時、エノケンさんが舞台で孫悟空を演じた際、如意棒を左足に落としたことが原因で、壊疽(えそ)と診断され、入院することに。

いったん復帰したもののいつ再発してもおかしくない状態だったのです。

1952年(昭和27年)10月、戦前から続けてきたエノケン劇団の解散興行中に再発。

エノケンは右足首を切断しないといけない事態に。

その舞台は広島での開催で、エノケンはシズ子に代役を頼んでいます。

笠置シズ子さんは多忙なスケジュールのなかでも、エノケンのたっての願いに対して即座に「私でお役に立つのならすぐに行きます。」ということで、広島に駆けつけました。

笠置シヅ子さんの「恩がある人の窮地には何よりも優先する」という、義理と人情を大事にするエピソードが、ここでもうかがえます。

 

 

「ブギウギ」タナケン(棚橋健二)を演じるのは生瀬勝久さん

ここからは「ブギウギ」で、エノケンさんをモデルとしたタナケン(棚橋健二)を演じる生瀬勝久さんについてご紹介します。

本名 生瀬 勝久(なませ・かつひさ)
旧芸名 槍魔栗 三助(やりまくり・さんすけ)
生年月日 1960年10月13日
出身  兵庫県西宮市

 

生瀬勝久さんは1980年、同志社大学文学部に入学。

同大学の劇団「第三劇場」に所属していた1982年に、京都大学系の劇団「そとばこまち」で2代目座長を務めていた辰巳琢郎さんにスカウトされたことで、翌1983年に「そとばこまち」に入団し、「猿飛佐助」にて初舞台。

学生時代は、槍魔栗 三助(やりまくり さんすけ)の名で「喜劇研究会」「第三劇場」、また「そとばこまち」でも活動。

卒業時、企業から内定をもらっていたものの、それを辞退して俳優の道へ進みます。

1988年には「そとばこまち」の4代目座長に就任し、劇作家・演出家も務められました。

コメディアンとしての才能を発揮し、槍魔栗三助名義で「探偵!ナイトスクープ」において探偵の初期メンバーの1人として出演。

探偵として、1985年の阪神タイガース優勝の際に道頓堀に投げ込まれ行方不明となったカーネル・サンダース像を捜索することもありました。

1988年NHK連続テレビ小説「純ちゃんの応援歌」へのレギュラー出演を機に、「槍魔栗三助」の名はNHKにふさわしくないとの理由から本名の生瀬 勝久へと改名。

その後も旧芸名にて活動することはあったものの、全国進出を意識して、1990年10月に本名に統一しています。

俳優として数々の作品に出演されており、NHK朝ドラは「ブギウギ」で5作品目の出演作となります。

これまでの朝ドラ出演作品は以下の通りになります。

  1. 「純ちゃんの応援歌」(1998年)
  2. 「まんてん」(2002年)
  3. 「べっぴんさん」(2016年)
  4. 「おちょやん」(2020年)

 

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